【ロードアップヒル感想】アンディ・シュレクは2011年のツールで燃え尽きてしまったのか?

アンディ・シュレク、フランク・シュレク。
二人の兄弟を描いたドキュメンタリー映画『ロードアップヒル』を観た。

公開は2011年。
同年のツール・ド・フランスではカデル・エヴァンスに破れはしたものの、シュレク兄弟揃って表彰台に登る、史上初の快挙を成し遂げた。

言わばシュレク兄弟の全盛期の絶頂期に公開された作品なのだ。

しかしながらアンディにとっては、3年連続総合2位という結果に終わってしまった年でもある。
後に2010年ツール覇者のコンタドールのドーピング発覚により、繰り上げでアンディが総合優勝となったものの、本当の意味で勝者となった気分ではないだろう。

そして、2012年以降のアンディは2011年のような輝きは一切失われてしまった。
追い打ちをかけるように、2012年ツール期間中に、フランクがドーピング違反でレースから追放され、1年の出場停止となってしまう。

『ロードアップヒル』は、2012年以降のアンディの凋落を知った上で見ると、違った見方が出来る作品である。

絶大な人気を誇った兄弟

「彼らは年の離れた兄弟だが、まるで双子のように一緒だ。良いところも、悪いところも。」
と、作中で兄弟を語るシーンがあった。

アンディは1985年生まれ、フランクは1980年生まれで年の差は5歳ある。
にもかかわらず、2011年ツールの第12ステージで兄弟が代わる代わるにアタックを仕掛けたように、二人のコンビネーションは抜群だ。

アンディとフランクは、練習する時もつねに一緒、宿泊するホテルの部屋も一緒、ほとんど24時間一緒に過ごしていた。
お互いの息遣い、披露具合、アタックしたいタイミング、すべてを手に取るように理解しあえていたのだろう。
兄弟という絆を越えて、プロサイクリストとして頼もしすぎる相棒という関係でもあった。

二人は攻撃的なレースを展開して、サイクルロードレースファンの心をつかむ走りが出来た。
たとえ総合優勝できなくとも、二人が絶大な人気と支持を得ていたのだ。

「彼らは年の離れた兄弟だが、まるで双子のように一緒だ。良いところも、悪いところも。」
という言葉には、一つだけ偽りが隠されている。

確かに、二人ともヒルクライム能力は高い一方で、タイムトライアルを苦手としている点は的を射ているだろう。

だが性格面では、兄のフランクは慎重で計算高い一面があるが、弟のアンディは直情型で攻撃的な一面を秘めている。
アンディは負けず嫌いだが、フランクは自分が勝てずとも、チームの勝利になれば満足するアシスト気質があるように感じる。

アンディも「自分か兄のどちらかが勝てれば良い」と発言しているが、第18ステージで「イゾアール峠でアタックしたいと直訴した」とあるように、自分の勝利を追い求めていることは間違いない。
その姿勢は、プロサイクリストとして全く間違っていない。
サイクルロードレースはチーム競技ではあるが、評価されるのはあくまで個人。
ゆえに個人成績を追い求めることは極めて重要だ。

だが、その姿勢がアンディを破滅へと追い込んだことも否めない。

2009年、2010年とツールで総合2位が続いたことで、2011年のツールで総合優勝を求める気持ちは、並々ならぬものがあったのだ。
「1位でければ強いレーサーとは言えない」という発言のとおり、総合優勝以外意味がないという姿勢で、ハードなトレーニングに打ち込んでいったのだった。

2011年ツールの敗北は、純粋な実力不足

ハードなトレーニングに打ち込む姿も作中では描かれている。

ローラー台を使った高負荷で自分を追い込むトレーニングをしていた際は、全身から汗が吹き出る上に、あまりのキツさに口からよだれがダラダラと垂れ続ける有様であった。
決してスタイリッシュではないが、泥臭く勝利のために厳しいトレーニングに打ち込む姿は美しかった。

トレーニングの成果もあり、落車等のトラブルにも見舞われることもなく、順調に後半戦へと突入していった。

しかし、第16ステージで試練を迎える。

この日は大雨のダウンヒルで、大きくタイムを失ってしまった。

同年のジロ・デ・イタリアで、アンディの同僚であるワウテル・ウェイラントが、ダウンヒルでのクラッシュで命を落とす事件があった。
アンディは心の中で、ウェイラントの事故が引っかかってしまい、ダウンヒルへの苦手意識が強まっていたのだろう。

「二人はわたしの息子だから、命があることが大切。」
と、兄弟の父親であるジョニー・シュレクはコメントしていた。
確かにそれは極めて真っ当な意見ではあるが、尋常ならざる苦しみを耐え抜いて総合優勝を目指す選手としては甘かったのかもしれない。

精神的な問題にせよ、技術的な問題にせよ、アンディがダウンヒルでタイムを失ってしまったことには変わりない。
大会も終盤に差し掛かる中で、1分以上のタイムの喪失はあまりにも痛かった。

だが、第18ステージ、タイム差を挽回するために起死回生の作戦を立案する。

フィニッシュまで60kmほど残したイゾアール峠で単独アタックを仕掛けようというものである。
この無茶に見える作戦は、結果として見事に成功した。

フィニッシュ地点へと至るガビリエ峠を独走で突き進み、アンディはステージ優勝と共に、エヴァンスから2分15秒のタイムを奪い、総合でも57秒差で逆転することに成功する。
雨のダウンヒルで失った時間を取り戻したのだった。

しかし、第20ステージの個人TTで、アンディは惨敗する。
エヴァンスに2分31秒差をつけられ、再び総合を逆転されてしまい、3年連続で総合2位となったのだ。

もう一人のライバルであるコンタドールに対しては、2分23秒差をつけることに成功している。
対コンタドールに関しては、レオパード・トレックの計算どおりに物事が運んだと言えよう。

誤算だったのは、エヴァンスの実力を見誤ったことだろう。
アンディの登坂力をもってしても、エヴァンスを振り切ることがなかなか出来なかった。
中盤の山岳コースで、エヴァンスからタイムを奪えなかったことが敗因に繋がっている。

厳しい見方をすれば、エヴァンスを突き放すことさえ出来ない登坂力、2分以上をタイム差をつけられるTT力、1分以上の差をつけられるダウンヒル技術、すべてにおいて実力不足だったとも言える。

だが、アンディは最善の努力をしていた。
それは間違いない。

最善の努力を積み重ねたのに、総合優勝が出来ない。
あまりにも厳しい現実に直面させられたアンディの中で、緊張の糸が途切れた瞬間だったのではないだろうか。

2011年ツール以降のアンディはもぬけの殻のような別人と化していた

2011年ツール以降のアンディの走った主要なレースの成績を列挙していきたい。

2011年8月、USAプロチャレンジ(2.1)総合33位

2012年3月、パリ〜ニース第3ステージDNF
同年3月、ボルタ・シクリスタ・ア・カタルーニャ第3ステージDNF
同年4月、アムステルゴールドレース91位
同年4月、フレーシュ・ワロンヌ81位
同年4月、リエージュ~バストーニュ~リエージュ50位
同年6月、クリテリウム・ドゥ・ドーフィネ第6ステージDNF
(ツール・ド・フランス欠場、同大会中にフランクがドーピング違反で追放)
同年10月、ツアー・オブ・北京第5ステージDNF

2013年1月、ツアー・ダウンアンダー第6ステージDNF
同年3月、ティレーノ~アドリアティコ第6ステージDNF
同年4月、ブエルタ・アル・パイス・バスコ第5ステージDNF
同年4月、アムステルゴールドレースDNF
同年4月、フレーシュ・ワロンヌ86位
同年4月、リエージュ~バストーニュ~リエージュ41位
同年5月、ツアー・オブ・カリフォルニア(2.HC)総合25位
同年6月、ツール・ド・スイス総合40位
同年7月、ツール・ド・フランス総合20位
同年9月、GPケベックDNF
同年9月、GPモントリオールDNF
同年10月、イル・ロンバルディアDNF

2014年3月、パリ〜ニース総合66位
同年4月、ブエルタ・アル・パイス・バスコ総合66位
同年4月、アムステルゴールドレースDNF
同年4月、フレーシュ・ワロンヌDNF
同年4月、リエージュ~バストーニュ~リエージュDNF
同年6月、ツール・ド・スイス総合29位
同年7月、ツール・ド・フランス第4ステージDNS

リタイアしたツール以降レースに出場することなく、アンディは現役を引退した。
まだ29歳だった。

2011年のツール以降、別人なのではないかと思うほどステージレースは完走もままならなく、得意のアルデンヌクラシックでも全く良いところを見せられていない。

2011年のツールで、アンディは燃え尽きてしまったのだろうか。
はたまた、多大な努力と犠牲を払っても勝てないという現実に心を折られてしまったのだろうか。

わたしはそのどちらもあるのではないかと見ている。

対称的に、フランクは2011年のツール以降、2012年にドーピング違反で出場停止になりながらも、2014年にルクセンブルク国内選手権を制し、2015年のブエルタ・ア・エスパーニャではステージ優勝をあげている。
フランクはプロレーサーとして職務を全うしたのだった。

このシュレク兄弟の物語は、栄光の2009〜2011年と、失意の2012年以降の対比を見ずに語ることが出来ない。

アンディの時折見せる驚異的な走りに魅せられた一人として、2012年以降の別人のような低パフォーマンスにがっかりしつつも、一体何があったのか?ということの方が気になっていた。

『ロードアップヒル』を視聴して、その謎が解けたような気がした。

アンディ・シュレクは現在、ルクセンブルクで自転車屋を営みながら、レースを主催するなど、自転車に関わる仕事を続けている。
子供も授かり、家族で幸せそうに暮らしていることがうかがい知れる。

何より、自転車のことを嫌いにならず、生業として関わりつづていることに、とても安心する。

アンディが最後の輝きを魅せた、2011年ツール・ド・フランス第18ステージを、わたしは一生忘れることはないだろう。

Rendez-Vous sur le vélo…

4 COMMENTS

アディ

2011年のツールは近年では1番の、そして最後の「古典的」とも言える展開だと思っていて、最近でもふとNHKの総集編を観たりします(^^)
(実は今のサガン勝ちパターンのようなフースホフトのステージ勝利が最高のお気に入りだったりします 笑)
あの時のレオパードトレックは、カンチェの鬼引き集団破壊やTTTでの先頭固定、七転び八起きの前待ちフォイクトさん、シュレック兄弟のコンビプレー等と、チーム力としては申し分なく大本命でしたね
しかし結果はキャリア集大成の結果を出したエヴァンスの勝利となりました!
思えばエヴァンスはアンディと同じく、いやそれ以上に苦渋をなめ尽くした過去を持ちながら勝てたこともあり、アンディも次は…と期待していましたが、翌年からは本人の不調に反比例するように、レオパードトレック以上のチーム力を覚醒させたSKYの台頭があって、結果的に2011年がラストチャンスとなってしまいました…
仰る通り、まさにアンディの「緊張の糸が切れた」ターニングポイントである点も、2011年のツールが忘れられない要因でもあります

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アバター画像 サイバナ管理人

アディさん

フースホフトの職人のような勝ち方は、シブくてわたしも好きです。
あと2009年のツールで、カヴェンディッシュが手の届かない山岳コースのポイントをコツコツ稼いで、マイヨヴェールを奪取したシーンが鮮烈な印象が残っています。

エヴァンスはこの年の勝利があったからこそ、母国で英雄視され、自身の名前がつくレースまで開催されるようになりましたからね。
本当に1位と2位は天国と地獄ですわ・・。

2012年はアームストロングやコンタドールを総合優勝に導いたヨハン・ブリュイネールがチームを率いるということもあって、とても期待していたのですが、
皮肉にもブリュイネールの得意のやり方に似た、ブレイルスフォードのチームスカイが台頭する結果となったんですよね。
そして、ブリュイネールはアームストロングのドーピング告白によって、ロードレース界から退場を余儀なくされました…。

思い返せば、様々なターニングポイントになっていたんでしょうね。2011年は。

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白橙アクア

初めまして。いつも楽しく拝見し、勉強させていただいてます。
アンディ、今の自転車に関わっているのですね。良かった…。

2011ツール18ステージの前待ち作戦には驚かされました。近年ではかなり頻繁に見られる戦法ですが、2011年以前にもよくあったものなのでしょうか?

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アバター画像 サイバナ管理人

白橙アクアさん、はじめまして!

アンディはいまも自転車が大好きなんで、本当に良かったです。

ランス・アームストロングがツール7連覇した際に監督を務めていたヨハン・ブリュイネールが書いた本を読んだことがあるのですが、
その頃(1999〜2005年)から、アシスト選手を先行させる作戦はあったと記憶しています。

ただ、2011年のアンディや、2015年ブエルタのファビオ・アルのような決定的な差をつけるため、というよりは後半でもアシストを受けられるようにするためという意味合いが強いように思えます。
ランスはめちゃくちゃ強かったので、前待ち作戦がなくても勝ってましたからね。

2011年ツール第18ステージで、前待ち作戦が見事に決まったので、その後流行していった可能性はあるかもしれませんね。
ちょっと色々調べてみたいと思います。

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